このコ−ナ−は言語交流研究所(ヒッポ=F・C)事務局長・鈴木堅史(メンバ−の人にはコントン(嬉)ファミィリ−の”ケンシさん”と言った方が判り易いかな?)がHIPPOアメリカ=プロジェクトに当たっての思いを書き綴った物を、本人了解の上その全文を掲載するものです。
長文ですので保存し回線切断後に、お読みになることを、お勧めします。
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そんなさまざまな背景を持った人たちが住むアメリカも、その人たちがお互いに心を開いたり、それぞれの違いを超えて友だちになるということが、なかなか難しいんだという話もいっぱい聞いたのである。
ニュージャージーのセミナーの後、入会されたフランス系アメリカ人のご婦人は、
“ここ(ヒッポ)に参加すれば、ふだん接することの出来ない、さまざまな人たちとお友だちになれ、自分の世界が広がるのが嬉しいから参加します”と言われた。
そのセミナーで一緒だった、韓国から1年半前にやってきたお母さんは、二人の子どもたちはもう英語ぺらぺらなのに、自分は“アメリカ人のお友だちが未だ一人もいません”と言って悲しそうな顔をしている。
ロスアンジェルスで会った台湾からの男性(在米20年)は、ロスでは特に、アメリカにやって来たそれぞれの民族の人たちが、みな固まって別々に住んでいます。英語が話せない人もいっぱいいます。ほんとうはみんなと友だちになりたいんですが…と言われ、ヒッポの活動を、ぜひロスアンジェルスでも待っていると熱心に話された。
アメリカに、私たちのヒッポ活動が広がっていけば、きっと、さまざまな民族的な背景を越えた、素敵な家族や新しい仲間たちとの、素晴らしい出会いがいっぱい生まれて来ると思う。そんなアメリカでのたくさんの人たちとの出会いは、また私たちのことばの世界を豊かにしてくれるにちがいない。セミナーが行なわれ、ファミリーが始まり、メンバーがテープを聞き始めた。場所はちがっても、そこには日本の私たちと何一つ変わらない、同じ姿があった。
人間であれば誰でもが持っている、素敵な自分を見つける、多言語活動への旅立ちとして、アメリカプロジェクトがスタートした。いよいよ世界ヒッポへの道が始まったのだ。
夢の実現、大きな夢の実現にむけて、一回しかない人生を、
・思いっきりはじけてみたい人
・人間のように生きてみたい人
世界中の人と友だちになりたい人
多言語人間になりたい人
ヒッポが大好きな人、誰でも
私たちのまわりに、そして世界中に、すてきなヒッポの多言語の世界を、私と一緒に、いっぱい創って行きましょう!!PS:応援メールや、アメリカプロジェクトメール直接送付希望の人は、以下のアドレスまで、E-mailを送って下さい。メーリングアドレスに入れさせて頂きます。
E-mail Address --- ***************
鈴木 堅史(すずきけんし)本部責任者
横浜 戸塚(嬉)コントンファミリー
<私にとってのアメリカ>
アメリカプロジェクトに参加して、フェロウや私自身がアメリカでこの目にしたのは、世界中からさまざまな民族を背景にした人々が集まって、表面的には、英語で一緒に生活しているアメリカの、背後にかくされた多言語国家の姿だった。
アメリカは私自身にとって、青少年交流の相手先である4Hの人たちとの出会いや、お付き合いがその経験のほとんどだった。
4Hの人たちとの交流で、英語のみで進められる年に一回の、全米各州の代表が100人以上も集まる大きなコンファランスでは、ヒッポの多言語活動の話をする時間などほとんど無かったし、また耳を傾けようとしてくれる人(みなとてもいい人なのだが)も少なかった。
そんな私にとって、今回のアメリカプロジェクトの始まりは、あの英語だけで話をしている…と見えていたアメリカの人たちを相手に、ヒッポの多言語活動の核心を伝える大きなチャレンジでもあったのである。
<アメリカプロジェクトの開始は、ヒッポをもう一度考えさせる大きなきっかけになった>
アメリカプロジェクトに参加した、フェロウの人たちがみな、口ぐちに言われたことは“ヒッポの素晴らしさをもう一度見つめ直した。榊原さんの本やトラカレから出ている本を読み直して、ヒッポを再認識した”とか“自分の足元のファミリーを、もっともっとしっかりつくっていくことそのものが世界ヒッポを作っていくことなのだ”ということだった。
なんといっても、相手は世界一の大国だし、世界中の人が集まって住んでいる所だ。そして、私たち日本人誰もが、すこし苦手としている、あの英語を話している国なのだ。そんな国を相手にしてヒッポの多言語活動を伝える、もう一度自分自身のヒッポに対する思いや、自分自身のヒッポに対する姿勢を考えざるを得なかったのである。
私自身も、今回のアメリカでのヒッポのスタートに関われたことが、自分がどうやってヒッポを始めたのか…とか、“What is Hippo?”ということをもう一度考え直す、良いきっかけになった。
16年前、ヒッポをスタートさせた時のことも思い出した。あの時は何も無いところからのスタートだった。すべて暗中模索でとても大変だったが、嘘じゃない、なにか凄いことがこれから始まって行くんだという期待だけで、胸をふくらませていた。
榊原さんの提唱で、英語だけの活動から、スペイン語と韓国語が加わり、大人たちにとって初めての(ことばを自然習得する)赤ちゃん体験が始まったころである。その時の体験は、私の人生にとっても、他の何ごとにもかえがたい大きなものであった。
榊原さんが、最近(97年12月)神奈川のYKC(AOTS横浜研修センター)で行われた、ラキラキ(男)合宿で、アメリカでヒッポの未来を見た!今回のアメリカでのヒッポのスタートは16年以上前に、初めて韓国語をプログラムに取り入れた時以来の、自分にとっては2度目の大きな意味のあることなのです、と話されたのを聞いて、本当に私自身も感無量だった。
<お隣の国を超えて世界は無い!>
<多言語人間とは、どんなことばにも人にも開かれた心なのだ>
ヒッポの多言語での自然習得活動を体験する中で、学んできた(そして見つけてきた)大切なことのひとつは、線を引かないということだ。
“ことばとことばの間に線を引かないんだよ、お隣の国を越えて世界はないよ、お隣の国の人を見て見ぬふりをして、世界の人とお友だちになろう…というのはどこか違うんじゃないかな?”韓国語の導入に際して、 榊原さんが繰り返し言われて来たことばである。
たまたま、文字も読めなかった韓国語が、プログラムに導入されたことが、大人も文字を媒介しないで、赤ちゃんと同じように、まわりの仲間たちとあたたかくことばを投げあい、受け止めあう中で、どんなことばでも自然習得していくことができるんだよ、ということを見つけていく大きなきっかけになった。
それに加え、韓国の、さまざまな人たちとの出会いと交流を体験する中で、たくさんの大切なことを学ぶことができた。今では、韓国は、私やヒッポのメンバーたちにとって、たくさんの友だちがいっぱいいる、とても近いお隣の国になった。
私にとって、その延長上に今回のアメリカプロジェクトがある。
“アメリカはひょっとしたら間違えたのかもしれないね”・・・これも榊原さんが言われたことばである・・・“本当はきっと、英語だけで話せというのじゃなく、それぞれの人が元々持っていた故郷(ふるさと)のことばを大切にしながら、お互いが相手のことばにも耳を傾けあい、そして共通のことばとして英語も話そうという風にしたら、もっともっと自然な、豊かな人間の住む場になっていったんじゃないかな?・・・どうしてかっていうと、元々世界そのものがそうなっているからだよ”
それを聞いた時、私は“そーだ!”と叫びたくなっていた。
ヒッポの活動を通じて私たちが見つけたいことは、本来の自然のなかで人間はどうやって生きてきたのか、どうやって生きていくのがより自然で、みんなにとってもこころよいことなのか…それを見つけることではないか!?
<ザンビアのムアンバさんたちや、素平(そっぺい)から学ぶ>
自然から学ぼう、赤ちゃんから学ぼう、自然科学の世界で見つかってきたことから学ぼう、本来の自然な人と人とのあり方の中から学ぼう、そんなことが何年間ものあいだ、ぐるぐると私の中でもめぐりめぐっていく中で、私の先生の一人になったのは、3歳の息子の素平(そっぺい)だった。
うちの奥さんも熱烈なヒッポファンだし、フェロウもしているということで、当然のことながら、彼もお姉ちゃんのトモリン(智子5歳5ヶ月)も、とにかく生まれた時からずっとヒッポをしている。彼らにとってヒッポは、毎日のご飯や空気と一緒である。多い時は週に5回も6回もヒッポに出て、あらゆる年齢の人と接しているのだから。家にも世界中の人がやって来ているし、多言語のヒッポテープはもちろん四六時中流れている。SADAも大好きで、はじめはぜんぶ大波で歌う。あいさつも7、8カ国語以上できる。
96年の秋から97年の6月まで10ヶ月間、フランスの交流で出会ったホストファミリーの息子の18歳のシルバン君が、高校留学生として家族の一員でいたし、夏には韓国の“よいお父さんになろう会”の家族、そして少し生意気なくらいかっこいい、北アフリカのチュニジアの大学生たちもやって来た。
そんな中、97年9月中央線合宿での、南アフリカザンビアからのJICAの研修生、ムアンバさんとカフアニさんとの出会いは、本当に嬉しいものだった。まわりのみんなから少し離れて座っていた彼らと、そっぺいは、たまたま目が合ったのか、自分からとことこ近ずいて行ってしまい、すぐに真っ黒なムアンバさんに抱っこされ、肩車され、あっという間にすっかり仲良くなってしまった。
ムアンバさんたちも嬉しかったのか、私たちの招待を心良く受けてくれて、家にホームスティに2回も来てくれた。ムアンバさんたちが来た夜、素平は一緒に寝るといって彼らの布団の中に入って行ってしまった。(1時間後にはおしっこ!といって出て来てしまったが・・・)
彼らは70以上ものことばが話されている、自然の多言語環境で育った、日本に来て半年しかたってないのに、もう日本語もとても達者に柔らかく話す、素晴らしい人たちだった。とにかく柔らかいのである。いつのまにか気がついたら多言語を話せていたし、そのことが特別のことでも意識したことも無い…といった感じなのである。
人に向かう姿勢が“これが本来の人間だ!”と教えて貰ったようなきがしたのは私だけでは無かった。まさに人工的な線を持っていないという感じなのだ。うちの奥さんも彼らと接したヒッポメンバーたちも、みんな、あっという間に彼らの大フアンになってしまった。ファミリーでもベンバ語(彼らの部族語)が楽しく飛び交い、チョルムニたちはザンビアに行くぞ!と張り切っている。そんなみんなの様子を見ながら、素平が彼らと出会った瞬間、すぐ近づいて行ってしまったのが、なおさら嬉しく思えたのである。素平がヒッポ活動の中ですくすくと育ててもらっているなと思ったのである。ヒッポプログラムがみんなの中で嘘じゃなく豊かに育ってきているんだな、と思えたのである。
このそっぺいの3歳から今までの間(98年1月1日現在3歳9ヶ月)の振る舞いは本当に面白かった。生まれるととにかく起きてから寝るまで、ほとんどずうっと喋り続けている。やがて自分のことだけじゃなく、トモリンの言うことも全部まねして言ったり、ヒッポの活動で、まわりのお姉ちゃんやお兄ちゃんたちの言ったことを大波でまねして、すこし上手に言えたりして誉められると、胸を天井にそりかえらせながら“僕ってすごっいでしょう!”と叫んだりしたのである。これには本当に脱帽してしまった。
大人になるということは(私自身)毎日の生活、仕事、そしてヒッポの活動においても、さまざまなことにかまけて、とかくまあいいかとか・・・自分自身をエクスキューズして、精一杯表現したり、全力を尽くして生きていくということが、できなくなるということではないかと、改めて感じ反省もしたのである。
ヒッポで学んだことは、一回しかない人生の中で、素晴らしい自分を仲間たちと見つけて行くことだったはずじゃないか!それに、そんなことは普通の世の中ではなかなか出来なくても、ヒッポの活動の場では、誰でもが思いっきり自分を発揮できるはずだったのではないか!
よーし俺もそっぺいをやるぞー!と思い始めていた頃、ちょうどアメリカプロジェクトが始まったのである。そして私自身のアメリカへの挑戦、自分自身への挑戦が始まったのである。
<レゾナンスが合いことば、そして、弾(ハジ)けあった私とフェロウたち>
10月のニューヨーク、ボストンでのセミナーに先だって6月には、フェロウオリエンテーションに榊原さんと5人のフェロウの人たちと一緒に行ってきた。その時のフェロウの人たちがまた凄かったのである。
とにかく英語はアメリカの人にはかなわなくても、彼らは私たちの英語を聞きに来るのじゃない、私たちがヒッポで体験したこと、見つけたことを聞きたくてやって来るんだから。とにかくヒッポで見つけた、嬉しいことや体験したことを、つたない英語でも精一杯伝えようじゃないかと、お互いに励ましあった。‘クレオパトラ’は常に全身でアメリカの人たちに向かって行ったし、‘おていちゃん’も自分のほうからだれかれと無く話し続けた。‘ミント’もイタリアの体験、そしてことばを歌う楽しさを、‘もるちゃん’も‘モジャ’も、精一杯頑張りとうしてヒッポを伝えた。
私も“レゾナンスしよう!”と言いながらアメリカの人たちに、ヒッポで体験したこと、見つけたことを、なんとかレゾナンス(共鳴、共振)してもらいたいと思って、120%頑張った。以前だったら、まあそれなりに頑張りました・・とでも言っていたかもしれないところを、こう言えるようになったのは、そう、素平のお陰である。でもそういう素平を育ててくれているのが、ヒッポの活動と環境であり、受け止めてくれているヒッポの仲間たちの、お陰であったのだと思う。
<引き出された私たちの多言語、そして私たちが引き出したアメリカの多言語>
アメリカに行った私たちが嬉しかったのは、どこに行っても、私たちが話す多言語を、それを母語として(人間のことばとして)受け止めてくれる人たちが、いつもいたということだった。
ボストンやニューヨークのダウンタウンでは、30分も歩けば7、8カ国語がいつでも聞こえて来るし。セミナー(講演会)やオープンクラブには、必ず、英語以外に、元々スペイン語を話す人、フランス語を話す人、ロシア語を話す人などが、いつでも何人か参加している。私たちがその人たちのことばを話すと、本当に嬉しそうに頷いてくれたり、にこにことお母さんのように聞いてくれたりするのだ。そんな人たちがいてくれたことで、私たちの多言語も日本にいた時には気がついていなかった(知らず知らずにたまっていた)音がどんどん引き出され、日に日になめらかに話せるようになって行く。1人が話し出すと、その次には一緒にいる人たちが、という具合にして、どんどん人から人に広がっていった。
まさにことばは人からもらい、場と人によって引き出される、ということを日々に、目の当たりにすることが出来たのである。
しかし良く考えて見ると、引き出されたのは私たちだけではなく、ふだんは英語だけで生活している彼らの多言語が、私たちによって引き出されてしまったとも言えるのではないか。
アメリカの英語の世界の向こう側に、膨大な多言語、多民族のすがたが垣間見えて来たのだった。
<嬉しかったファミリーや、全国のヒッポ仲間たちからの声援>
アメリカプロジェクトには、6月の時も今回(10月)も、フェロウを送り出したご主人や家族、それぞれのファミリーのメンバー、そして全国のヒッポ仲間たちからの声援や、励ましのエールが凄かった。私自身も、最近やっと身につけたE-mailで、ボストンの山ちゃんと一緒に、全国のヒッポ仲間に向けて“アメリカに一緒にヒッポを創ろう!”とメッセージを送り続けた。
“いよいよアメリカでヒッポが始まると聞いて、ワクワクしています。頑張ってきてください!ファミリーのみんなで応援しています。”
“自分が直接参加してなくても、なんか自分のことのように嬉しいです。”
“アメリカでヒッポが受入れられれば、本当に世界中にヒッポが広がっていきますね!”
“将来、世界のどこかにヒッポを作りに行くのを、自分の夢にします。”
ヒッポがアメリカで始まる…っていうことは、こんなにも多くのヒッポメンバーたちを、勇気ずけ、励ますことだったんだ・・・と、反響の大きさにあらためて驚くと同時に、自分だけじゃない、自分たちだけじゃない、日本中のヒッポメンバーが、私たちの後ろについていてくれているんだと思うと、本当に嬉しかったのである
<いよいよ世界ヒッポだ!>
じつは、アメリカプロジェクトが始まる以前より、世界中から(特にホームスティ交流の相手先から)はやくヒッポを初めて欲しいという話を、なんども要請され、懇願され、時には脅迫?されて来てもいたので、アメリカでのヒッポ活動の始まりは、世界ヒッポへ向けて、いよいよ具体的な計画や行動を進めることができる、緒についたということが出来るのである。
現在考えていることは、1998年度中に、アメリカやメキシコ、カナダでヒッポを本格的にたちあげ、その経験の中で学んでいくこと(マテリアルやさまざまな会費システムほか、あの広大なアメリカで―ボストンとニューヨークは、東京と大阪、ニューヨークとロスアンジェルスは、大阪とバンコックの距離である―どうやってワークショップとか体験の交流をはかるか、等々)を重ねながら、その後の世界各地への展開をはかっていきたいと思うのである。
1999年には、今ヒッポにあることばの数だけいっきにそして同時に、ヒッポを世界中に紹介していくことができるような気がしている。そのことを通して、ヒッポの世界が本当に豊かになり、結果、日本のヒッポもメンバーの人たちとともに、大きく広がって行くことを期待したいのである。
アメリカ=プロジェクト=メールを送付希望の方、また、ご意見ご質問は私(田中)宛に願います。
また鈴木一家は2002年夏、ニュウヨ−クから帰国、現在は横浜で新たなファミリー造りに挑戦中です。
MAILTO:KEI